第51回研究例会 of 韓国・朝鮮文化研究会


【2月7日(土)韓国・朝鮮文化研究会第51回研究例会 会場変更のお知らせ】

2月7日(土曜日)に予定しております第51回研究例会の会場を以下の通り変更いたします。
お間違えのないようにご来場ください。

会場:東京大学(本郷キャンパス)赤門総合研究棟 7階738号室→8階840号室(多分野交流演習室)

※赤門総合研究棟(赤門を入り右斜め前の建物)のエントランスを入って正面のエレベーターで8Fまでお上がり下さい。

 第51回研究例会

日時:2015年2月7日(土曜日)15時~18時10分

   15:00~16:30発表①室井康成氏(建設資材販売業)
   16:40~18:10発表②阪堂博之氏(共同通信社)

会場:東京大学(本郷キャンパス)赤門総合研究棟8階840号室(多分野交流演習室)

最寄り駅:本郷三丁目駅(地下鉄丸の内線、大江戸線)
■アクセス:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html
■建物位置:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_02_j.html

赤門を入り右手の建物です。
*当日は土曜日で建物内に入れない可能性があります。(4時までは開いているはずですが)その時には研究室の電話03-5841-3636に御連絡下さい。



▽発表者①:室井康成氏(建設資材販売業)

◎題目:「『事大主義』観の形成-“映し鏡”としての近代日韓関係-」

【発表要旨】


 「事大主義」という言葉がある。その意味は、時勢や大勢に身を任せることで、自身の安息を図ろうとする自律性・主体性を欠いた人間の態度を指すが、最近のインターネット上に散見される言説を瞥見すると、この語はもっぱら、日本側から韓国/北朝鮮へと向けられた蔑語として使用されている感がある。だが、戦後日本の自文化認識に多大な影響を与えた民俗学者の柳田国男は、「日本人とは何か」と問われても、それは「事大主義と島国根性」の持ち主であるということくらいしか答えようがないと語ったことは、よく知られている。このことからも分かるように、長らく「事大主義」は、日本人自身が自己表象を行なう文脈において、その 集団的特質を端的に表す際に使用されてきたという歴史をもつ。

 そもそも「事大」という語は、中国古代の儒教経書『孟子』の一節に由来するが、これに英語の“~ism”の訳語である「主義」をくっつけて、新たな概念語を発明したのは啓蒙思想家・福沢諭吉であると考えられている。福沢は、これを当時の朝鮮政府内において、文明開化を拒否して清国との冊封体制を維持しようとする一部勢力を指して使用したが、甲申政変での朝鮮開化派の敗北、日清戦争における日本の勝利を経ると、その意味内容は福沢の意図を離れて一人歩きを始め、朝鮮国/朝鮮人全体の特質を表象する語として変移し、やがては日本の韓半島への武力進出を正当化する際の重要なキーワードへと転換した。

 日露戦争後になると、この語は逆に、日本人じしんが持つネガティブな特性を示す語として、さらに意味内容を変えていく。そして韓半島が日本の統治から独立した後は、この語は日本から逆輸入され、分断国家として出発した韓国・北朝鮮それぞれが、打破すべき民族的弱点であるという意味を付与して、定着することになる。そして南北朝鮮では、「事大主義」的態度こそ反動であるとする、極めて政治的な意味合いを持つ語へと、さらに変質してゆくのである。

 「事大主義」の解釈をめぐる、こうした一連の変化からは、明治維新以降、双方を「映し鏡」として自文化表象を形成してきた日本と韓国/朝鮮の関係が浮かび上がってくる。本発表では、そうした変化の契機にあった出来事や、その変化に影響を与えた人物の言説を手掛かりとして、「事大主義」という言葉から垣間見られる近代以降の日韓関係史の一端を明らかにしてゆきたい。



▽発表者②:阪堂博之氏(共同通信社)

◎題目:「朝鮮戦争とメディア利用―日本人従軍記者特派の背景分析を中心に」(仮)

【発表要旨】


 朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)さなかの1951年7月、連合国軍総司令部(GHQ)は日本メディアの記者に「国連軍従軍記者」の肩書きを与え、従軍取材を許可した。同年7月10日から開始される休戦会談取材に限定するという条件だったが、日本は当時、主権国家として独立しておらず、朝鮮戦争の当事国でもなかった。にもかかわらず、なぜGHQは許可したのか。

  本発表は下記三つの背景が絡まった結果だとみて分析を試みた。

  まず、冷戦の顕在化に伴うGHQの占領政策転換である。特に1949年10月の中華人民共和国成立に続く朝鮮戦争勃発が決定的となり、米国は日本の共産化を防ぎ、アジアの「反共拠点」とする必要性に迫られた。

  次に当時の日米韓関係である。米国はそれだけでなく日本と韓国を連携させて「反共の防波堤」をつくりたかったが、6年前まで続いた植民地支配や李承晩政権の強い反日政策もあって日韓関係は悪く、米国が仲介する必要があった。

  三つ目はメディア側の事情である。軍から「一方的な情報提供」と「検閲」が課され「情報操作」される危険性が高いと分かっていても、メディアは戦争報道をする。メディアにとって戦争は重大なニュースで、もうかるビジネスでもある。記者やカメラマンにとっては「スクープ」を狙え、キャリアアップできる機会である。

  すなわち、GHQはサンフランシスコ講和条約発効後も日本を東アジアにおける「反共拠点」、さらには韓国と連携させた「反共の防波堤」にしておきたかった。このため、日本メディアの報道で国内世論を米側の意向に沿った方向に喚起し、韓国世論にも影響を与えることを期待した。西側陣営に独立後の日本を取り込むため米国がメディアを利用して打った手の一つが日本人従軍記者特派だった。

韓国・朝鮮文化研究会 事務局
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