第25回研究大会 of 韓国・朝鮮文化研究会

韓国・朝鮮文化研究会会員各位


 下記の通り、第25回研究大会を対面にて開催いたしました。

韓国・朝鮮文化研究会第25回研究大会委員会
委員長  古田富建



韓国・朝鮮文化研究会第25回研究大会

日時:2024年10月26日(土) 10:00〜18:00

場所:帝塚山学院大学(泉ヶ丘キャンパス)別館A433号室(会場)・A434号室(控室)

交通アクセス・施設案内:https://www.tezuka-gu.ac.jp/access/

□ プログラム

10:00〜12:00 一般研究発表
 辻大和  「朝鮮王朝による北方地域特産薬材の開発と利用」
 本田洋  「現代韓国における祭祀実践と親密圏の再編成」
 板垣竜太 「戦後京都の朝鮮人教育運動のミッシングリンクをつなぐ:兪仁浩(1929-92)の留学生時代の日記をもとに」

12:30〜13:00 会員総会

13:10〜18:00 シンポジウム「韓国朝鮮の出版と社会」
 趣旨説明:中尾道子
 報告:山田恭子「韓国古典の印刷と流通」
    田中美佳「総合雑誌『開闢』(1920〜1926年)と読者—朝鮮における出版「大衆化」の一断面」
    森類臣「現代韓国における「出版」の役割とその変容—ジャーナリズム論からの検討を中心に」

 コメント:柳川陽介
 総合討論

□発表・報告要旨 
(1)一般研究発表の要旨
辻大和 「朝鮮王朝による北方地域特産薬材の開発と利用」

 本報告では朝鮮時代の北部での薬材の発見や利用について報告する。
 朝鮮王朝の領域は14世紀末にはおおよそ豆満江、鴨緑江流域まで広がった。北方地域には官衙が設置され、貢納や進上のかたちでその地域の特産品が中央に送られた。特産品のなかには薬材が多数含まれていた。三木榮をはじめとする医史学の蓄積では、朝鮮半島の王朝は高麗以来、郷薬(土着薬材)の研究を進めたことがわかっており、李泰鎮を代表として、郷薬の開発は朝鮮王朝の顕著な業績として高く評価されている。郷薬だけでなく、外来の薬材についても近年の韓国では研究が進んでおり、朝鮮半島には自生しないが、多用される生薬であった甘草の国産化が15世紀顕著に進んだことがイギョンノクによって明らかにされている。それではほかの薬材の動向はどうなのだろうか。
 本研究ではまず、16世紀前半までに王命により編纂された地理書である『新増東国輿地勝覧』の土産条に注目し、北方地域(咸鏡道および平安道地域)の特産品を整理する。そのうち、人蔘や麝香などの高価な薬材の調達や利用のされかたを解明する。朝鮮の文献史料上では、麝香は14世紀には中国からの輸入が顕著なものの、15世紀半ばには国産品と中国産品の比較が朝鮮政府によって行われたことがうかがわれ、朝鮮産麝香の定着があったものとみられる。また『東医宝鑑』などの医籍にもこれら朝鮮産薬材に関する記述がみられる。
 麝香の基原はシベリアジャコウジカである。シベリアジャコウジカは朝鮮半島でも絶滅危惧種であり、近年ごく少数の生息が確認される。韓国での標本の残存は限定的であるとみられるが、日本国内では現ロシア領原産のシベリアジャコウジカの標本が少なくない。そこでシベリアジャコウジカの標本調査を北海道大学植物園・博物館の協力も得つつ、行うことができた。また韓国のソウル薬令市韓医薬博物館では麝香の実見も行うことができた。以上のような文献調査と標本調査の結果を合わせ、報告したい。


本田洋 「現代韓国における祭祀実践と親密圏の再編成」

 昨年の大会シンポジウム「韓国家族再考」の成果のひとつとして,近現代朝鮮韓国社会における概念装置としての「家族」の構築と再生産を具体的な事象に即して跡付けることを通じて,家族の自明性・当為性を問い直し,代案的親密性の可能性へと架橋したことを挙げられる。この発表では,代案的親密性と親密圏の重層性についての民族誌的考察を射程に入れつつ,その準備作業,あるいは既存の民族誌資料の再帰的な記述・分析として,現代韓国における親密圏の再編成を2019〜23年に実施した祭祀・追慕の実践に関するインタビュー・書面調査の資料に即して考察する。
 この発表の論点の第一として,儒礼祭祀の正統性と父系的なバイアスのかかった近親関係(父方キンドレッド)の顕著な揺らぎを挙げられる。死者の祭祀・追慕において儒礼以外の選択肢が広く受容されるようになる一方で,かつての集姓村など農村地域を拠点とする父系親族の組織化の弱化やこの拠点とのつながりの断絶など,近親関係あるいは親密圏への父系的統制が顕著に弱まっている。移動性・流動性が高まるなかで,儒礼祭祀と父系的つながりの再生産はこれに自発的に参与する諸個人の選択に強く依存するようになっている。第二としては,近親関係の多様な実態とその可塑性・流動性を指摘できる。父母・祖父母などの身近な死者の祭祀・追慕においては非父系的・双方的近親の関与が時に目立ち,また個々の事情によってつながる/切れるなど,顕著な可塑性・流動性を確認できるが,これはケア・配慮の関係性としての親密圏・親密性の変容とも相関すると考えられる。論点の第三としては,私的な領域における微視的な権力関係(家父長制)の再生産とともに,祭祀と家族の実践に参与する諸個人の行為主体性と家族の役割をめぐる交渉の顕在化を指摘できる。
 家族の現実に対するマクロな計量分析とそれを基盤として生成される公的な言説では近年家族の窮状が強調されるようになっており,それが社会問題化され国家・行政の政策や市民運動へと回収されている。その一方で,家族の実践と「家族」の作用には顕著な個別具体性(particularity)を確認できる。個々人にとっての親密圏あるいは私的領域は,公共圏の介入を受けつつも相互に秘匿的であるがゆえに,生活の必要性や欲望に促されて多様なあり方をとりうる。時に抑圧や暴力も隠蔽される。それ故に国家・行政や市民社会によるケア・配慮の関係性への介入と親密圏の再編成を論ずるにあたっては,制度的な介入あるいは規範の作用と私秘的な関係性の間の境界付けがどのように交渉されるのかを考慮に入れる必要がある。これは代案的親密性の実践においても,重要な論点となるであろう。

板垣竜太 「戦後京都の朝鮮人教育運動のミッシングリンクをつなぐ:兪仁浩(1929-92)の留学生時代の日記をもとに」

 1949年11月、日本政府は朝聯(在日本朝鮮人聯盟)系とみなした朝鮮人学校をことごとく閉鎖に追い込んだ。京都でもほとんどの朝鮮人学校が閉鎖を余儀なくされたが、そのなかで旧朝聯系の学校としては京都朝鮮梅津学校だけが、各種学校としてあらためて認可を受けた。梅津学校自体は小さな学校に過ぎないし、実質的に存続できたのは5ヵ月にも満たないが、同校が各種学校として認可されたことは、その後の京都の民族教育にとって重要な遺産となった。梅津学校については、認可書類や断片的な聞き書きが残されている。しかし、なぜ、どのようにして梅津学校だけが認可されたのか、これまで推測で語るほかなかった。
 この戦後京都の民族教育史のミッシングリンクをつないでくれるのが、のちに韓国で民衆経済学者として知られることになる兪仁浩(1929〜1992)である。解放後、労働運動に身を投じていた兪仁浩は、1949年、留学のために非公式的な手段で渡日し、1950年から立命館大学で学び、1955年に再び韓国へと戻っていった。彼は1949年10月に梅津学校の教員となるやいなや、朝鮮人学校閉鎖令に直面し、その認可の獲得のために奔走することになった。彼は翌1950年3月に同校が閉校となるまで、この学校の唯一の教員として教鞭を執った。
 兪仁浩は京都時代に詳細な日記を書き残しており、その記述から、これまで知られていなかった梅津学校の実態や、それに関わる諸事象を垣間見ることができる。そこからは、兪仁浩が制度的には「密航者」でありながらも早い段階で必要な書類を揃え定着していったこと、彼の人脈が民団系・教会系と朝聯系の双方にまたがっていたこと、府庁の担当者との粘り強い話し合いで解決策を見出していったこと、渡航前に南朝鮮労働党には関わっていたものの朝聯のメンバーではなかった彼の独特の立場が結果的にうまく作用したことなど、重要な事実を知ることができる。
 本報告は、彼が残した日記の生々しい記述と諸資料を突き合わせることによって、この時代の京都における在日朝鮮人の民族教育運動を、新たな角度から照射する。

□ (2)シンポジウム「韓国朝鮮の出版と社会」

 韓国朝鮮では早くに印刷技術が発達し、その長い歴史において出版文化の花を咲かせてきた。出版文化の隆盛は、情報の伝達やルート、知識の形成、文学・思想の発展にさまざまな影響を与え、政治・社会の動きとも深く関わってきた。それゆえ出版に関する研究は、書誌学などの分野のみならず、文学・思想を含む文化全般、さらには社会を理解するうえにおいても有用な切り口となる。
 出版とは、ごく一般的に理解されるところによれば、「文書・図面を印刷してこれを発売・頒布すること」であるが、韓国朝鮮の伝統社会は、印刷された本(版本)と人の手によって書き写された本(写本)が流布し、読まれ書写された時代であった。19世紀に民間による営利を目的とした商業出版がさかんとなってもなお写本の比重は高く、20世紀以前までは印刷によらない手書きの本が多く出回り、流布していた。書物の頒布を「出版」(publishing)ととらえるならば、近代以前の出版を論じる際、写本の存在も欠かすことはできない。
 韓国朝鮮において活版印刷による近代的な出版物が登場するようになるのは1880年代のことである。植民地期における民族運動や文芸活動は、西洋由来の最先端の知識や思想を摂取し、それを民衆に拡散することで展開していったが、その際、新聞や雑誌、書籍といった出版物が情報の伝達や普及に大きな役割を果たした。
 さらに、「出版」は、今日の韓国朝鮮社会における知のあり方を考察するうえでも意義を有する。20世紀末から続くデジタル技術の発達により、IT強国である韓国ではいち早く電子化が進み、情報技術、社会制度とも連動しながら出版メディアとその読書空間も変容を迫られている。これまで自明であった冊子体の存在が相対化されつつあり、出版をめぐる環境は劇的な変化の局面を迎えている。
 本シンポジウムでは、出版を対象として取り扱うものの、あらかじめ「出版」という語の指示対象を固定してしまうことはせずに、出版の変容に焦点をあてるとともに、それが社会における知の伝達・形成・蓄積といかに連動しているのかを問うていく。文学・歴史学・社会学などさまざまな角度から韓国朝鮮の出版文化の諸相について具体的な分析を行い、それが社会においてどのような位置付けにあるのか、さらには韓国朝鮮社会における知のあり方にどのような変容をもたらしたかについて、出版という事象を通して文化的視点の共有を広げ、議論を深める場としたい。従来もこうした視点からの研究がなかったわけではないが、多くは個別的な研究にとどまっているように思われるため、出版を社会における文化事象としてとらえ、総合的に究明できないかと考えた次第である。韓国朝鮮社会の出版の動態を明らかにしていくことによって、そこに記された内容を研究資料として用いるということのみならず、それが人びとの間でどのように扱われ、知のあり方にどのような影響をもたらしたのか、ということから、過去から現在に至るまでそれらを生み出して継承する当該地域の社会を考えるというのが本シンポジウムの目的である。
(文責:中尾道子)

報告題目

報告:
山田恭子 「韓国古典の印刷と流通」

 韓国の印刷は中国文化と仏教文化の影響を受けて発展した。『無垢浄光大陀羅尼経(8世紀中頃)』が木版印刷の嚆矢とされ、1011〜1087年頃は『初雕大蔵経』が木版印刷されたが元寇によって焼失し、1236-1251年には『再雕大蔵経(八万大蔵経)』が再版された。
 鋳造活字の嚆矢は毅宗代(1146-1170)に『詳定礼文』で、現存しないが、礼法に関する文献を編集したものとされる。『東国李相国集』に『詳定礼文』を高宗21年(1234)に活字で印刷したという記録が残る。現存する最古の金属活字本は『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節(1377)』で、忠清北道清州の興德寺で刊行、『直指』と略称されている。
 朝鮮における金属活字の鋳造、印刷出版は、官庁で行われた。高麗末期の1392年には書籍院が建てられ鋳字と書籍印刷を管掌した。1403年に鋳造された癸未字が朝鮮王朝初の金属活字で、中国の三皇五帝から五代までの十七史を論じた『十七史纂古今通要(1403) 』は癸未字で印刷されたものである。その後、1420年には甲寅字が、1436年には丙辰字が鋳造された。甲寅字は朝鮮四代王の世宗が改良して造った活字であり、ハングルの銅活字も併用して書物が出版された。
 朝鮮時代以降の書籍の出版形態の違いを述べると、大きく、非商業出版と商業出版に分かれる。非商業出版としては官刻本(官庁刊行)、書院版本(書院刊行)、寺刹版本(寺の刊行)、私刻本(民間の個人刊行)がある。寺刹版本は仏書の出版だけでなく、両班たちの著述、文集、族譜も印刷した。安東の鳳停寺で刊行された蔡済恭(1720-1799)の『樊巖集』はその例である。
 商業出版としては坊刻本がある。「坊」は「書坊」すなわち「商業的な書店」の意味で、坊刻本とは営利を目的に民間で出版された木版本をさす。最古の坊刻本は『攷事撮要』(1568年、乙亥字本)とされ、事大交隣をはじめ、日常生活に不可欠な一般常識などを編纂した類書である。坊刻本は、官版本の供給不足、人口増加と商品貨幣経済の発達、娯楽目的の書籍が多数を形成するようになったことから発達した。特に19世紀以降、ハングル小説が刊行され、書籍の大衆化を促した。地域別にソウルの京版本、全州の完版本、安城の安城版本がある。
 1879年には釜山において、日本外務省がハングル活字本『林慶業伝』『崔忠伝』を刊行した。また1913年以降はソウルにて古典籍専門書店である翰南書林が創設され、ハングル小説も含め、多くの古典書を出版した。古典小説は筆写本としても流通し、貸本屋である貰冊房(貰冊家)を通して筆写され普及したが、近代以降、急速に衰退していった。


田中美佳 「総合雑誌『開闢』(1920〜1926年)と読者—朝鮮における出版「大衆化」の一断面」

 本報告は、1920年代を代表する総合雑誌であった『開闢』(1920年6月〜1926年8月)の文芸欄の変遷を分析することを通し、植民地期朝鮮における出版界の「大衆化」に迫ろうとするものである。
 出版社新文館を設立した崔南善が、総合教養雑誌『青春』(1914〜1918年)といった出版物を通して民衆に近代的知識を紹介したり、民族意識を鼓舞していたように、1910年代の武断政治期における「出版」とは知識人による啓蒙の手段であり、また読者も限られていたといえる。
 一方、朝鮮総督府の統治政策が武断政治から文化政治へと転換した1920年代の朝鮮では読者層が拡大し、民衆の啓蒙を図るものから純粋な娯楽を目的とした一部の恋愛小説、生活に根差した実用書にいたるまで多種多様な出版物が刊行される。つまり、「出版」は従来の啓蒙の手段に加え、啓蒙とは必ずしも結びつかない商業的な行為も含むようになり、朝鮮の出版界は「大衆化」していく。
 こうした朝鮮出版界の変化を考察するうえで、重要な存在といえるのが『開闢』である。朝鮮社会の改造を目指して創刊された同誌は、朝鮮を取り巻くさまざまな問題についての論説や、西洋近代思想の紹介等、民衆を啓蒙する文章を多く掲載した。それゆえ、『開闢』についての研究は民族運動や社会主義運動との関わりという視点に主に焦点が当てられてきた。
 一方で、『開闢』が朝鮮出版界の「大衆化」と無縁ではなかった点については深く考察されてこなかった。当時の朝鮮社会では、朝鮮語出版物の広がりを背景として「文芸熱」が高まっており、『開闢』ではまさに文芸欄の充実を求める読者と朝鮮社会の改造のために紙幅を割きたい編集側の間での葛藤が表面化していたのである。『開闢』は、こうした読者の声を全く無視することはできなかった。
 本報告では、創刊から廃刊にいたるまでの『開闢』における文芸欄の占める割合や性格の変化を、読者の同誌に対する要望やそれに対する編集側の対応に注目しながら考察する。また、編集側が読者の声を一部では受け入れつつも、『開闢』の目指す方向性に合わせて誌面を構成する際に、日本の出版物を活用していた点にも言及する。以上を通して、『開闢』が朝鮮出版界の「大衆化」現象にどのように向き合っていたのかに迫りたい。


森類臣 「現代韓国における「出版」の役割とその変容—ジャーナリズム論からの検討を中心に」

 新聞・雑誌・放送などを含む(マス)メディアを研究対象とした領域は、大きく3つに分けられる。第一に、媒体自体の特性・機能・システムを扱う「メディア論」である。第二に、送り手から受け手への情報伝達の過程に注目しその効果を研究する「マスコミュニケーション論」である。第三に、(マス)メディアを空間として展開される言説の内容とその思想性を研究する「ジャーナリズム論」である(花田1996、林2002)。これらの研究領域は理論的には峻別されるものの、実際は相互に影響を与え連関する部分があるため、事例研究においてはそれぞれの理論を参照し、接合させながら行われることもある。
 報告者はこれまで、主に「ジャーナリズム論」に立脚し、権力・公共圏・社会運動などの要素を踏まえながら1948年以降の韓国のジャーナリズムを分析してきた(森2019)。本報告でも基本的にこのような立場から、韓国の「出版(출판,publishing)」を検討してみたい。本報告におけるリサーチクエスチョン(RQ)は二つある。

 RQ①:ジャーナリズム論から考察した場合、1948年以降に出版刊行物はどのような役割を担ってきたのか。
 RQ②:公共圏がインターネット上に移行し、さらに多様なwebメディアの出現によって新聞・雑誌・放送の境界が曖昧になってきている現在、「出版(출판、publishing)」の領域および独自性を再検討する必要があるのではないか。

 RQ①については、1948年の出版刊行物状況を概観した上で、1980〜1990年代初めまでの出版刊行物とジャーナリズムの関係性に言及する。この時代の一部の出版刊行物(雑誌・書籍)で展開された思想とそのオルタナティブ性は、後のジャーナリズム状況に大きく影響を与えるものであった。それは、民主化運動と切り離せない関係にあった。特に、よく知られているように、民主言論運動協議会の機関誌であった『言葉(말)』は言論民主化運動の先鋒だったと言える。1986年9月号で「報道指針」事件を暴露し、政権による言論統制の実情を詳細に報じた。一方で、政権批判に終始せずに「制度言論(제도언론)」を強く批判した。雑誌というオルタナティブな言説空間においてオルタナティブなジャーナリズム論を追求したのである。課題①においてはこのような具体的な事例を通して、1980〜1990年代初めの出版刊行物の重要な役割を考察したい。
 RQ②では、1990年代後半以降、特にインターネット空間の活性化以降の「出版」概念を扱う。出版刊行物を含む「伝統メディア」の後退とwebメディアの標準化という現象は加速度的に進行しているといえる(김위근・황용석2020)。特に、ポータルサイトは新聞・放送・雑誌が主に担っていた「報道」のみならず、これまで出版刊行物が提供していたような様々なコンテンツ(小説などの読み物、漫画などを含む)をほとんどすべてウェブ上で提供できるようになった。「ウェブトゥーン(Webtoon)」のように、web上の形式が漫画の表現方法に変化をもたらし、独自のオンライン漫画に発展した事例もある。
 ジャーナリズム論との関連では、韓国において、公共圏/対抗的公共圏の中心を、それまでの紙媒体(出版刊行物を含む)・放送媒体からインターネット上の言説空間に大きく転換させる契機となった代表的な媒体は、2000年2月に刊行された『オーマイニュース』であった。1990年代初めまでは出版刊行物がオルタナティブ性を発揮していたが、その空間が出版刊行物からwebメディアに移行したのである。2008年のキャンドルデモでは、インターネット上での対抗的公共圏の形成によって、これまで公共圏を担ってきた新聞・放送・雑誌・一部書籍ら「伝統メディア」からのウェブ上へのパワーシフトの可能性が大いに議論された。
 このように、ジャーナリズム論の側面だけではなく、メディア論の側面においてもwebメディアの標準化は「出版」概念に大きな変容を促していると言える。
 本報告では、二つのリサーチクエスチョンに明確に解答を与えることを狙ったものではなく、リサーチクエスチョンの設定自体を含め、議論の端緒になることを目指したい。

<参考文献>
 花田達朗(1996)『公共圏という名の社会空間』木鐸社
 林香里(2002)『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』新曜社
 森類臣(2019)『韓国ジャーナリズムと言論民主化運動: 『ハンギョレ新聞』をめぐる歴史社会学』日本経済評論社
 김위근, 황용석(2020)『한국 언론과 포털 뉴스서비스』한국언론진흥재단


以上

韓国・朝鮮文化研究会 事務局
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学大学院人文系研究科 韓国朝鮮文化研究室内