第8回大会
日 時 : 2007年10月13日(土) 10:00~18:00
場 所 : 同志社大学 今出川校地寒梅館KMB208教室
10:00~12:00 一般研究発表
12:30~13:10 会員総会
13:10~18:00 シンポジウム
18:30~20:30 懇親会
(1) 一般発表(10:00~12:00)
1.金貞蘭「植民化と衛生政策‐釜山の済生医院を事例として‐」
2.森類臣「朝鮮半島に関連する呼称の研究―日本のマスメディアを分析対象として―」
3. 李潤馥「韓国のオンライン空間における社会関係―日本との比較を中心に―」
(2) 会員総会(12:30~13:10)
(3) シンポジウム(13:10~18:00)
テーマ「移動という視座―空間・場所・地域をめぐって」
司会:嶋陸奥彦
研究報告:
1. 林史樹 「韓国・朝鮮における場所の観念―移動と所有の関係からの考察」
2.吉田光男「移動する人/しない人」
3. 外村大 「植民地朝鮮から日本内地への人の移動―生存戦略に着目して」
4.伊藤亞人「韓国社会における人の移動」
18:30~20:30 懇親会(Hamac de Paradis=寒梅館1階)
◇費用:大会参加費 1,000円
懇親会費 (有職者)4,000円 (学生他)3,000円
参加申し込み
まだ参加申し込みをされていない会員の方々は、懇親会への参加・不参加も明記したうえで、下記のあて先に至急お申し込みください。非会員の参加も歓迎します。
1)電子メール(下記):今回は研究会事務局のアドレスを転用しますので、件名に必ず「大会参加」と明記してください。
2)郵便:〒113-0033東京都文京区本郷7-3-1東京大学大学院人文社会系研究科韓国朝鮮文化研究室気付 韓国・朝鮮文化研究会第8回研究大会運営委員会宛
発表要旨
1)一般研究発表
a)金貞蘭「植民化と衛生政策‐釜山の済生医院を事例として‐」
本研究では、植民化と衛生政策の一環として開港以降の釜山において実施した日本の衛生事業に着目する。特に開港直後、日本人居留地に設立された朝鮮最初の近代医療施設である済生医院をその対象とする。済生医院の設立目的とその活動を分析し、当時釜山で行われた衛生事業の内容と本質的意義を考察してみるのが本研究の目的である。
済生医院は1876年、朝鮮国京城(現在のソウル)へ派遣された宮本小一外務大丞が釜山に滞在していた際に病院設立の必要性を感じて、日本政府に提起したのがきっかけとなって設立された。この医院が設立される以前、高田英策なる人が在釜日本人に治療を施していたが、増えつつあった日本人を治療するには不十分なものであった。また風土病を含む様々な疾病の流行を懸念するなど、当時の釜山は不潔極まりないところだという認識が日本人に支配的であった。従って釜山に居住する自国民を保護するために、医療施設の設置が不可欠なものであったといえよう。
初代院長として海軍軍医である矢野義徹が 赴任した。彼は宮本外務大丞が釜山に滞在していたときに同行していた人物で、既に朝鮮人に医療を施した経験を持っていた。1883年、済生医院は海軍の所管から陸軍省の所管に移動され、陸軍軍医の小池正直が院長として赴任してきた。小池は1885年まで在任し、後に、この2年間の在留中の見聞を集めて『鶏林医事』を著述した。この本には釜山の気候、地形、風俗はもちろん、東?府にある温泉の効能なども書かれてある。『鶏林医事』は当時朝鮮の医事衛生に関する見聞調査を掲載した最初の文献である。そして後には日清戦争における朝鮮内の作戦に、衛生勤務上の参考として大いに活用された。
済生医院は同年10月1日から共立病院と改称・運営されるに至った。1894年になると、共立病院を公立病院と改称し、更に1906年には統監府の告示によって釜山居留民団が公法人として認められるにつれて釜山居留民団立病院とその名を変えた。そして1914年、居留民団の廃止と府制の実施により府立病院となったのである。
済生医院は日本人だけでなく朝鮮人にも治療を施した。特に小池院長は日本人施療患者表と朝鮮人施療患者表をつくり、両国の人民がよく罹る病気を明らかにした。また朝鮮人と日本人に対する薬価が異なっていた。
日本人と朝鮮人に対する治療の以外に、死傷者の検屍・診断書の発給など、警察及び裁判の事務を補助することも行っていた。1883年10月、新しい海関税則により朝鮮の各開港地に税関が設けられたが、そこに勤めていた外国人役人の治療も済生医院で施すことになった。また、日清戦争の際には兵站病院と改変され、負傷兵の救療所として使われた。
本研究の今後の課題は済生医院が官立病院であった際、日本の国家予算編成の中でその運営費はどのくらいの割合を占めているのかを確認することである。また、済生医院の活動が釜山の社会にどのような影響を及ぼしたのか、その詳しい内容を収集・分析していく。
b)森類臣「朝鮮半島に関連する呼称の研究―日本のマスメディアを分析対象として―」
近年、朝鮮半島全体に関連する呼称について、「韓」を使うべきかそれとも「朝鮮」を使うべきなのかは、朝鮮半島における不幸な南北分断国家の成立が主要な原因となり、非常に複雑で難解な問題となってきた。大韓民国(ROK、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(DPRK、朝鮮)の呼称や言語の呼称、日本による植民地支配時から様々な理由で日本に住んでいた人々とその子孫である在日朝鮮人への呼称などの問題がある。
韓国・朝鮮研究において、朝鮮半島に関連する呼称問題の歴史を分析した先行研究は、ある程度見られる。しかし、最近の日本のマスメディア(主要な報道機関。以下、メディア)を対象に、これらの呼称問題について詳細な分析を試みた研究はまだなされていないと思われる。
本研究の目的は、メディアにおいてこれらの呼称がいかなる過程を経て、実際にどのように用いられているのかを整理・分析し、その定義と論理を明らかにすることである。現在、メディアが使用している呼称にどのくらいの妥当性があるのかを、ジャーナリズム論の見地から検証する。特に、朝鮮民主主義人民共和国の呼称についての調査研究に主眼を置く。
分析対象は新聞記事を中心とする。2002年9月17日の日朝首脳会談前後から現在までの日本の主要新聞を主な対象とし、適宜過去の記事も調査する。テレビ放送については、主要放送局に対する書面調査などを中心に調査する。新聞記事を分析の中心とした理由は、ジャーナリズム性という点で新聞の報道・論評が非常に重要であることである。対象期間を02年9月17日前後からとしたのは、同日平壌で行われた日朝首脳会談で金正日国防委員長が日本人拉致を認め謝罪して以降、各メディアはそれまで使用していた「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」という呼称を徐々にやめ、03年1月1日以降はほぼ一斉に「北朝鮮」と単独呼称するようになったという大きな変化があるからである。
研究手法は、ジャーナリズム理論を踏まえた新聞記事の分析と、関係者への聞取り調査(ジャーナリストなど)・メディアへの書面調査(新聞社・放送局)である。
本研究は、朝鮮民主主義人民共和国の呼称について中心に行なうが、一方で、言語名の表記や、在日朝鮮人の呼称についてメディアがどのように使用しているかについても可能な限り論じたい。現在、新聞では「韓国語」「朝鮮語」などと併用されている。また、在日朝鮮人の呼称問題も、韓国籍・朝鮮籍の違いも含め、「在日朝鮮人」「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」「在日コリアン」等の呼称が併用されている。また、日本国籍を取得した在日朝鮮人をどのように呼ぶかも重要である。日韓国交樹立後に、様々な目的で韓国から日本に移り住んだニューカマーに対しての呼称の問題もある。これらの使
用の事態を調べ、最も適切なものを探りたい。
c)李潤馥「韓国のオンライン空間における社会関係―日本との比較を中心に―」
インターネットの普及とともに、インターネットを通じて新しい関係が構成されたり、空間、場所、地域を超えて既存関係が新たに繋がれたりする。
インターネット普及率の高い韓国では、日本とは違って現実社会の社会関係が広範にオンライン化している。1990年代後半から現われ始めたオンラインコミュニティの場合、日本では匿名そしてオープンが特徴であった。
例えば、多様なテーマの掲示板で構成されている日本の 2chの場合、匿名で誰もが参加することができる。それに対して韓国のダウム・カフェーの場合、現実社会の人間関係に基づいたカフェー(オンライン・コミュニティ)が全体の半分にも達しているとされる。
また 2004年以後本格的に普及されている SNS(social networkservice)の展開においても、日韓は大きな違いが見られていると考えられる。日本のmixiは紹介制であり、多くの参加者は (少数の人々が相手が誰なのかが確認できる形の) 仮名をとっている。
ところで、韓国の代表的なSNSであるサイワールドは紹介制ではない。実名制をとっており、自由に参加できる。また、既存関係がクラブ機能を通じて自動的につながる傾向が強い。例えば、サイワールドでは同じ学校出身の場合、卒業生のminihompi(my mixiに対応)が自動で互いに繋がれている。
発表者は韓国の s大学 o学科、およびs郷友会を事例とし、日本との比較の視点で現実社会の人間関係がオンラインコミュニティやSNSを通じて具体的にどのようにつながっているのかについて報告したい。
2)シンポジウム「移動という視座―空間・場所・地域をめぐって」
シンポジウムの趣旨(林史樹)
近年、韓国では国内外への移動が盛んである。人々は、移民や引っ越しなど、ことあるごとに居場所を移すのである。そのためか、それだけ土地に対する愛着も弱い印象を受ける。とくに以前に住んでいた場所に立ち寄って「昔年」を懐かしむこともなさそうである。ときに望郷への思いがつづられても、多くは漠然とした「三千里」を懐かしむだけで、生まれ育った故郷の地や以前の具体的な居住地に固執しない気がする。一般に、韓国では地域感情が根強く、また人々の愛国心も強いとされるが、居住する空間や土地に向けられる思いとは乖離しているように思える。果たして、この乖離はどこからくるのか。韓国・朝鮮において、空間はどのように捉えられてきたのだろうか。過去において、どのような人々が動き、また動かなかったのだろうか。 一つには場所に対する記憶の仕方に違いがあるのかもしれない。あるいは、移動との関係でいえば、「ものの所有意識」と重ねて説明できるかもしれない。空間との関係でいえば、屋敷や墓、観念的な場所である本貫の捉え方、もしくは逆にもっと広い空間である地域の捉え方の違いから、何が説明できるのか。今研究大会では、移動という視座から韓国・朝鮮を捉えなおすことを試みる。いわゆる実験的な試みとなるが、文献や調査データをもとに、過去から現在にわたって繰り返されてきた移動から韓国・朝鮮社会を考えていきたい。
報告者の発表要旨
a)林史樹「韓国・朝鮮における場所の観念―移動と所有の関係からの考察」
近年、韓国における国内外の移動が注目されるようになった。海外には、1990年に入ってから2003年まで年に 1万人以上の移民を海外に送りだしてきたし、国内においても1980年から 継続して 800万-1000万人の移動人口がいる。つまり現代韓国では、移民や引っ越しなどを通して、居場所を変える人々が多いということになる。この社会の流動性については、朝鮮時代にさかのぼって活発であったことをすでに検討・指摘したが、これらのデータと合わせ考えると、韓国・朝鮮社会では階層的な移動のみならず、空間的な移動も盛んであると予測される。
このように、空間的な移動が盛んなだけ、韓国・朝鮮では土地に対する愛着も弱い印象を受ける。とくに以前に住んでいた場所に立ち寄って「昔年」を懐かしむということもなさそうである。一方で、韓国では地域感情が根強く、また人々の愛国心が強いといわれるが、居住する空間や土地に向けられる思いとは乖離している。このような矛盾はどのように解釈できるのだろう。彼らにとって、空間はどのような意味をもっているのだろうか。
本発表では、まず韓国・朝鮮の事例以外に、広く移動生活者と所有物の関係を紹介し、移動する人々が所有物に執着をみせないことを指摘する。次に、朝鮮時代以降、韓国・朝鮮社会において支配的であった儒教との関係から、韓国・朝鮮の人々が儒教的価値観からやはり同様に「もの」の所有に執着をみせなかったことを指摘する。さらに、移動集団や移民の事例を扱いながら、それを所有と場所の関係に移し替え、移動と所有されない場所の関係を述べていく。最後に、韓国・朝鮮における場所の観念について「もの」の所有との関係からまとめなおし、展望では韓国・朝鮮において所有される場所についても思いをめぐらせたい。
b)吉田光男「移動する人/しない人」
「移動する人」と「移動しない人」という対立的とらえ方から、近世韓国社会における「空間的移動」の問題を戸籍・族譜の実証的分析を基礎にして考える。韓国近世農村では、同時代の日本農村に比べて移動性の高さが大きな特徴と見なされている。筆者が観察してきた、数集落(村、マウル)で構成され、250戸ほどのサイズをもった面(小型盆地地域)は、17世紀後半から19世紀後半までの200年間で男系・女系いずれであっても血縁的に継承した戸はわずか1戸にすぎなかった。農村集落は近世以来、不断に多くの住民が移動している社会である。その移動範囲は集落を越え、郡(邑)を超え、時に道の境界線をやすやすと越えて全国的な広がりをもっている。
その一方で、同地域の他集落には、トバギなどと呼ばれ、多くは地域名門士族(両班)の一族に属する住民で、数百年以上の定着性を誇る人々がいる。韓国近世農村は、このように、「移動する人」と「移動しない人」の両者によって形作られている。ところが、彼らも2つの意味で、(近世日本農村から見れば)頻繁かつ広範囲な移動を行っている。トバギたちも自己のテリトリーである「邑」内で移動を繰り返し、マウルを超えて居住地は広がり、子孫は各マウルに分散する傾向がある。一方、婚姻(婿入り婚)や親族招聘、開拓、時に落郷などによって、大氏族になれば全国的な広がりをもっていると認識されている。これすべて「移動」の結果である。何を「移動」ととらえるかがまずもって論ぜられなければならないであろう。従来、「移動」か「定着」かに力点を置いて行われてきた農村住民の動きを、両者の密接な連関性のうえに、「地域」「空間」「住民」という三者の相互関係のなかで展開してみたい。韓国農村には「移動」することに対するプッシュ要因が強く、「定着」に対するプル要因が弱いのか、このあたから、人々と地域・空間・集落との関係を考える手がかりをつかむことができるであろう。
およそ「移動」は素朴には「空間移動」だが、そこには様々な思惑・条件・意識が重層的に存在している。それらの特質を読みほぐしていくことは、韓国人にとって「空間」とは何か、という問いに対する一つの回答を出すことになるであろうか。そうなれば幸いである。近代史や文化人類学など他分野の手練れのパネラーとの間で真剣な意見交換・相互批判が行われ、韓国の人々にとって「地域」や「空間」がどのような意味をもっているのかについて、示唆を得ることができれば私にとって最上の成果になるであろう。
c)外村大「植民地朝鮮から日本内地への人の移動―生存戦略に着目して」
植民地期における朝鮮人の日本内地への移動は1920~30年代にはほぼ10万人台、戦時下には30~40万人台で推移した。もちろん、観光葬祭等の私的な用事、あるいは商用や観光でやってきた人も皆無ではなく、留学や期限を区切っての日本内地行きもそのなかには含まれ、なかには自らの意思とは無関係の連行もあったが、かなりの部分は生活を維持するための単身出稼ぎないし家族を帯同した移動によるものである。
交通手段がそれほど発達していないこの時期のこのような移動が大量に見られたことついては、これまでも注目され、研究されてきた。その際に重視され、論じられてきたのは、政策と経済的要因であった。前者は治安問題や労働需給対策としての渡航管理や戦時動員の暴力性を指摘し、後者は移動の背景にプッシュ・プル要因が存在したことを述べてきた。そうしたこれまでの研究の意義は少なくないが、なお、“植民地期にこれほど多数の朝鮮人の移動は、なぜ、いかにして行われたか?”を説明するには十分とは言えないだろう。
政策については朝鮮側の人口調整や労働力配置の構想や政策の実効性の検証、経済的要因については、ミクロの部分で実際にそれがどの程度の規定性をもったのか、政策との関連性はどうだったのかを明らかにしなければならない。そして、そもそも、人の移動は、政策や経済要因だけに規定されるとは考えられず、移動する主体それ自体に着目する必要がある。
本報告では、この点に関連し、朝鮮人が、移動に関連するどのような情報を得ていたのか、あるいは得ていなかかったのか、移動を実現するためのいかなる主体的な努力がなされていたのかを見ていく。その際には、これまであまり注目されてこなかった「密航」についても組み込んで考察を進めることとしたい。その上で、政策や経済的要因が持った意味についても再考し、分析を提示する予定である。
d)伊藤亞人「韓国社会における人の移動」
人の移動・移住を説明するには、(1) 社会体制による説明と、(2) 文化的な説明の二つが考えられる。前者は、社会体制との関連で資源をめぐる人々の社会的な位置に注目するもので、主として国家あるいは国際社会における都市化、就労、移民、教育、落郷、亡命、避難などの経済的・政治的・社会的な理由に向けられてきた。それは、社会システムと統計による状況説明ともいえるもので、これまでの移動・移住に対する関心は前者に偏りがちである。これに対して後者は、人々の価値判断や志向、動機づけとなる社会的威信あるいは人々の人間像や生活像をめぐる認識や意味に注目するものである。 韓国社会における人々の移動・移住を動機づける文化伝統として、本報告では儒教をはじめとする宗教伝統について検討することにしたい。ただし、現代韓国における儒教の伝統をどのように位置づけ評価するかという点について一般的な基準を設定するのは容易でないので、一つの視点として日本との比較を踏まえることにする。
本報告では、儒教における人間像や生活像をめぐる認識として、社会的な評価と行動を規定する貴賤観に注目し、貴/賤に対応するものとして内面的・精神的な観念/外面的な物・場所・技能について検討する。特定の物や場所や型に拘束される生活像を賤と見做すのに対して、前者はこれに拘束されない普遍的な価値志向と自由な精神性に対応する。つまり、貴賤の認識を行動規範にまで拡大して韓国社会の分析概念として位置づけるなら、特定の物的な装置や場所との固定的な関係を絶つことが、賤を避ける行動として肯定的に捉えられることになり、韓国社会における移動・移住をはじめとする流動性との関連が明らかになるように思われる。
韓国・朝鮮文化研究会 事務局
〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学大学院人文系研究科 韓国朝鮮文化研究室内