第43回研究例会
日時:2012年2月2日(土曜日) 14時~18時
・プログラム
14:00~14:10 研究プロジェクトの概要と成果について 六反田豊氏
14:10~14:50 発表①「朝鮮時代漢江の国家的水運機構と水運拠点」六反田豊氏
14:50~15:30 発表②「前近代朝鮮の地誌・地図に見る河川――朝鮮時代の漢江を中心に」長森美信氏
15:30~15:40 休憩
15:40~16:20 発表③「朝鮮人と川魚――朝鮮時代を中心に」森平雅彦氏
16:20~17:00 発表④「20世紀前半における漢江の水上交通――渡船を中心に」石川亮太氏
17:00~17:10 休憩
17:10~18:00 質疑・討論
会場:東京大学(本郷キャンパス)赤門総合研究棟7階 738号室
最寄り駅:本郷三丁目駅(地下鉄丸の内線、大江戸線)
■アクセス:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/map01_02_j.html
■建物位置:http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_02_j.html
赤門を入り右手の建物です。
*当日は土曜日で建物内に入れない可能性があります。(4時までは開いているはずですが)その時には研究室の電話03-5841-3636に御連絡下さい。
ミニ・シンポジウム「漢江を考える―朝鮮半島における「水環境」史構築をめざして」
(科学研究費補助金・基盤研究(B)「朝鮮半島の「水環境」をめぐる社会・経済・文化の歴史的諸相――漢江を中心として」成果報告会)
▽開催の趣旨
今回の研究例会は、日本学術振興会科学研究費補助金による基盤研究(B)「朝鮮半島の「水環境」をめぐる社会・経済・文化の歴史的諸相―漢江を中心として」(以下、本研究プロジェクト)の研究代表者・分担者4名によるミニ・シンポジウムとして開催する。
本研究プロジェクトでいう「水環境」とは、海洋・湖沼・河川など、「水」を基本的要素とする自然環境のことである。これらの「水環境」は、食糧採取・生産の場としてはもちろん、ヒトやモノの移動・流通のための通路として、あるいは信仰や娯楽の対象として、歴史上、人間の生活にとって欠くべからざる存在であり続けてきた。本研究プロジェクトでは、そうした「水環境」を歴史学的な視角から捉える試みとして、さしあたり、朝鮮半島における主要河川の一つであり、当該地域の社会・経済・文化の歴史的展開過程において重要な役割を果たしてきた漢江を主要な対象とし、水運・渡し・漁撈などの側面にとくに注目しながら流域各地での現地踏査を中心とした研究・調査を進めてきた。
2010年度から始まった本研究プロジェクトも本年度末でひとまず終了する。そこで、今回はその成果とりまとめの一環として、3年間の研究成果の一部を研究例会の場をお借りして報告させていただくこととした。朝鮮史研究においては未開拓な分野でもあり、研究は緒に就いたばかりである。「水環境」史というにはまだほど遠いが、今後の研究の進展のために会員諸賢の活発なご参加と意見交換を切に請うものである。(六反田豊)
▽発表者①六反田豊(東京大学)
◎題目:朝鮮時代漢江の国家的水運機構と水運拠点
【発表要旨】
朝鮮時代の運送・物流の問題を考えるさい、漢江や洛東江などの大規模河川が果たした役割を軽視することはできない。にもかかわらず、朝鮮時代の河川水運に関する歴史学的な研究がこれまで活発になされてきたとは到底いいがたい。そもそも朝鮮時代史研究においては、河川水運のみならず、運送史や水運史といった分野自体が全般的に不振な状況なのだが、そうしたなかでも、とりわけ河川水運の関する研究は少ないといわざるをえない。既往の水運史研究における考察対象はもっぱら沿岸海運であり、河川水運を正面から取り上げた研究は中村栄孝氏の先駆的業績以降、数えるほどしか存在しないのが現状である。
数ある朝鮮半島の大規模河川のうち、王都である漢城と朝鮮半島中部・南部地方とを結ぶ位置に存在した漢江は、国家的な需要にかかる各種物資の遠距離輸送ルートとして建国当初から重視された。そのため、政府はそうした国家的レベルでの水運を円滑におこなうべく、水站とよばれる水運施設を漢江沿辺各地に設けた。しかし、この水站制度については、水站の分布状況や制度の輪郭およびその時期的変容といった基本的な事項についてさえ、如上の研究状況に規定されていまだ必ずしも十分には明らかにされていない。
発表者はかつて、朝鮮時代初期の漢江における水站所在地や同じく朝鮮時代初期に漢江各地に設けられた税穀積出地などの水運拠点の現地比定を試みたことがある。そのさいにはおもに文献史料と朝鮮時代の古地図および植民地期の地形図等を主たる典拠としたが、今回、あらためて該当する地点を詳細に現地踏査し、その景観や立地条件などを観察・調査する機会を得た。本発表では、その成果を踏まえつつ、朝鮮時代の漢江における国家的水運の全体像とその特徴などを水站制度を中心に整理することにしたい。
ところで、漢江のような大規模河川の場合、本発表のように国家的需要物資の遠距離輸送を実現するシステムとしての水運がまずは注目されるのだが、むろん漢江における水運はそれにとどまるものではない。流域各地における生活物資中心の中・短距離輸送としての水運の存在にも当然目を向ける必要がある。「水環境」史という視角からは後者がより重要だろう。また、航行技術や水運従事者の生活史なども視野に収めるべき課題である。それらをミクロレベルでの「水環境」にかかわるものとするならば、本発表は、いわばマクロレベルでの「水環境」利用という視座からの考察として位置づけることができるだろう。
▽発表者②長森美信(天理大学)
◎題目:前近代朝鮮の地誌・地図に見る河川――朝鮮時代の漢江を中心に
【発表要旨】
河川は人々の暮らしに大いなる恵みを与えるとともに、時に氾濫を起こして聚落を破壊し、多くの人命を奪うという両面性をもつ。近代に入って人類は、その手にした土木技術という「力」で、そのような河川のもつ「破壊性」を抑制しようと試みてきた。李明博政権が推進してきた「四大河川再生事業」もまた同じ脈絡の上で理解できよう。ところで、現在のような重機や土木技術を持たなかった時代、朝鮮半島の人々は河川とどのように向き合ってきたのであろうか。
これまで朝鮮史学の分野において、河川は水上交通の舞台として、また水害の原因、治水の対象として扱われることはあっても、人々がそのような河川とともにどのように暮らしてきたのか、河川そのものを生活の場として考えることはほとんどなかったように思われる。
本発表では、近代以前の朝鮮半島において、人々がどのように河川とともに暮らしてきたのかを考えるための基礎作業として、近代以前の文字資料や絵画資料に河川がどのように描かれているのかを考察する。具体的には、朝鮮時代の地誌および地図にみえる漢江の記述や描写を整理することで、当時の人々、あるいは国家が河川をどのように把握していたのか、把握しようとしていたのかを考える手がかりを探ってみたい。
朝鮮時代に作成された地誌については既に多くの研究蓄積があり、それぞれの地誌の史料的評価も概ね定まっている。本発表では、まず各時期を代表する地誌として『新増東国輿地勝覧』(16世紀)、『輿地図書』(18世紀)、『大東地志』(19世紀)の三地誌を取りあげる。また主として19世紀以降のものになるが、朝鮮時代に作成された地図資料に漢江がどのように描かれているのかをあわせて分析することで、当時の人々――とりわけ為政者が、河川をどのような存在として捉えていたのかを考える糸口を探ってみたい。
▽発表者③森平雅彦(九州大学)
◎題目:朝鮮人と川魚――朝鮮時代を中心に
【発表要旨】
いわゆる環境史研究の基本的な視座としてヒトによる資源利用・空間利用の問題があるが、「水環境」にまつわる論題の1つとしては、漁撈活動、およびその結果としての水産物の消費をあげることができよう。しかし海におけるそれとは異なり、朝鮮半島における内水面漁撈と川魚の資源利用については、学問分野を問わず、ほとんど手つかずの領域といえるのではないだろうか。
漁業史を経済史・産業史的関心から研究するかぎり、確かにそのウェイトは小さく「みえる」だろう。しかしその活動はかつて朝鮮半島各地で広範にみられた。地域社会における生活文化・生業活動の一環としてみた場合、あるいは内水面環境とヒトとの関係性をうかがう素材としてみた場合、決して軽視できない重みがある。そして、かつて日本列島のそれに関して渋沢敬三が指摘したように、自家消費的な「オカズトリ」による漁獲量は、商品市場におけるデータとして残らないだけで、実際には膨大なものに上ったかもしれないのである。現代の韓国でも、内陸部あるいは水田地帯で育った人々の記憶に耳を傾ければ、比較的若い世代に関しても、日常の食生活のおける川魚の存在感を十分に感じることができる。しかし現在、その来し方を振り返る機会を満足にもたぬまま、ヒトと川魚の関係性は希薄化している。
本発表では朝鮮時代のデータを中心に、朝鮮半島の人々がいかなる川魚を採取し、食してきたか、そしてヒトと川魚の関係性、また川魚を媒介とするヒトと内水面環境の関係性についていかなる議論が可能か、あるいは必要か、問題の所在を確認してみたい。これは今後にむけての基礎作業として叩き台を示すものであり、朝鮮半島での現地調査に従事する本会会員その他諸氏と知見を交換する場とできれば幸いである
▽発表者④石川亮太(立命館大学)
◎題目:20世紀前半における漢江の水上交通――渡船を中心に
【発表要旨】
ソウルを除く漢江の大半では、1980年代まで渡し船が基本的な渡河手段であった。民俗調査の類によれば、渡し船の多くは面営であったが、実際には特定の渡し守に運営を請け負わせることが多かった。渡し船の運営は「募穀」という方法を取っていた。これは渡し船を頻繁に利用する集落の住民が、年に1~2回決まった額の金銭や穀物を渡し守に支払っておき、普段は料金を支払わらずに利用するというものである。これは住民が都度払いの繁を避けるだけでなく、渡し守に安定した収入を保証するための工夫だったと考えられる。
このような習慣がいつ始まったか確認は困難だが、「渡」の「津夫」に一定の「廩田」を給付するという朝鮮王朝の法典の規定が想起される。渡し船は一般の道路とは異なり、渡し守を常駐させておかなければならなかった。その生活を保証し安定したサービスを提供させるには、何らかの制度的な措置が必要だったのだろう。そこには何らかの「権利」が発生したはずであり、その「権利」の実態を考えることは、川が人々の経済・社会生活の中で占めた意味を考える上で、興味深い課題の一つだといえる。
このような問題意識から、この報告では、20世紀初の漢江における渡し船の問題を取り上げる。この時期の漢江の渡し船については、大韓帝国期の1902年に内蔵院の管轄下で「渡津会社」が設立されたことが知られているものの、その後についてはほとんど知られていない。ここでは保護国期から植民地期にかけて渡し船に関する制度がどう変化したかを概観した上で、新聞記事等に現れる事例を通じて、その運営の実態について初歩的な考察を行いたい。
韓国・朝鮮文化研究会 事務局
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